運命のあの日。1945年8月15日午後四時頃、海軍大分飛行場にて。
「・・・宇垣中将は、折り畳み椅子の上に立ち上がった。その訓示を二村は殆ど茫然とする思いで聞いていた。(中略) 見送りに来たと思っていたのに、長官自らが特攻隊を率いるというのか。余りに異様な事態をどう理解していいのか分からなかった。「一億総決起の模範として死のう」といったとき、長官は手に持つ短剣をぐっと皆のほうに突き出すようにした。本当に長官も行かれるのだと思ったとき、二村一飛曹※2の興奮はきわまっていた。なんという光栄であろうかと奮い立つ思いであった。(「私兵特攻」松下竜一/新潮社より)
どうにか完成したよ、彗星四三型。
彗星といえば液冷のものしか知らなかったのが、大分航空隊の跡に行き最後の特攻隊の碑を見、上記の本を読んで、これは大分県人として作らねばならぬと思い、とにかく作り始めたはいいけれど、若干作りにくいのと自分の塗装の失敗などでずるずると時間が経過、さらに私生活でもいろいろ大変な事態が勃発、途中から苦しさが三倍くらいになった。
それでもやはり模型作りは楽しいし、こうして完成したときの喜びといったら、ありませんね。すべての辛いことは吹っ飛ぶ。
我ながらカッチョええではありませんか。
そう、完成したもん勝ち。どうだどうだ。少しくらいうまくいってなくても、気にしない。
最後にキャノピーのマスキングを剥がして、目の前に全体像が姿を現したとき・・・・思わず号泣!!
いやまぁ、てへへ、号泣とまで言うと大げさですが、思わず「うぅぅぅ」っていうくらい涙があふれたんだよ。
自分の作った模型見て泣いたのなんて初めて。「私大丈夫か!?」と動揺したけどね。
多分、彗星を作ることの苦難だけではなく、この機体を操縦した中津留大尉※1、偵察員・遠藤秋章飛曹長、後席の宇垣纒長官の最後の特攻の情景を常に思い描き、そしてこの三か月に及ぶ私の個人的にキツイ日々、それらがいっぺんに胸の奥から流れ出たからだと思う。
ちなみに少し薄いところなどタッチアップ。そんな完璧にはマスキングできたためしがない。
ラッカーをブラシで吹いて、エナメルでスミ入れ。
最初白っぽいグレーでスミ入れしてみたんだけど、何か不自然だったので、結局かなり黒いグレーで。裏側はこげ茶色でスミ入れしてます。最後に半ツヤクリアーを吹いた。アンテナ線はカステンのストレッチリギング(伸縮性あり)です。
マーキングは数字や文字以外は塗装。ウォークウェイはデカールにしようと思ったらうまく貼れなくて結局塗装して・・・あまりうまくいってない。最初から塗装すりゃよかった。
あ、リベットは上面だけに打っている。しかもかなり省略。これが私の作風(笑い)
キャノピーは冗談かよ!!っていうくらい、ものすごく分厚いんだけど、ハセガワのセラミックコンパウンドで磨いてポリマーで仕上げるとピカピカになって中がよく見えていいね。けっこうこれでいい感じだと思う。
自作のシートベルトなんかもチラ見えして満足。ただし、キャノピーは微妙にずれている(汗
胴体下に800kg爆弾を抱えてるけど、大きすぎてハミ出してます。うふふ。
主翼端の塗料が薄いのかなあ、もう一度吹くかなあ、いやだなあ面倒だなあ・・・・汗
この機体を最後に撮影した写真が「私兵特攻」などにあるけれど、それ見て「げげっ!!」と気が付いた(完成後)、アンテナ線がもう一本見えてる・・・・なんで気が付かなかったんだろう、悔しいなあ。どのへんにどうつければいいかわからないので、これは無視。
それともうひとつ大失敗は、第一風防の照準器の前あたり、全然塗装していない(汗 塗装忘れたか・・・
第一風防外そうかと一瞬思ったけど、もういいや←おい!!
大分県人の恥ですが、ここはもう・・・いいわ、全体的に恥さらしな製作記だから。今更これくらいの失敗で動じるような私ではない。
排気管後ろの焼けてる具合は自分で「こんなもんかなあ」という推測で焼けさせた。
塗装したらパテが浮き上がってきている部分もあちこちあって、もうトホホの集積。
敵味方識別帯は左翼のほうを何度もタッチアップしたせいで、左翼が濃い黄色になっちまった。
うまくいってないところを上げればきりがないけど、いいところを探してみてください。
ガンプラの赤と青色の透明ランナーを使って翼端灯を作った。まぁまぁの出来か。
ピトー管は真鍮パイプと真鍮線。若干長すぎるかも。
銀剥がれは、実機写真見るとそんなに剥がれていないように見えるけど、演出として少し施した。難しかった。今回は珍しく描き込んだけど(72のときは先に銀色塗装しておいて爪楊枝で剥がす)、どうもうまくいかない。経験値でしょうねこういうのは。
全体の色もなんでこんなヘンテコリンな色になんだ?と思うでしょうけど、これは自分の好きな色で塗装してるから。
クレオスの三菱色だと、ご存じ青々としたグリーンです。
だけど、8月15日の大分航空隊の西日を受けた機体・・・砂埃と容赦ない太陽の照り付ける、日本全体がガックリと生気を失った日の三菱色っていうのは、こういうふうに見えたんじゃないかと、思い切って色褪せた緑色にしてみた。
何はともあれ、完成は目出度い。
そして彗星は悲しいほどに美しい。
はじめて大分飛行場からの最後の特攻を知ったとき、嫌悪感を覚えた。なんでよりによって大分から飛んだんだろう。そして次に「宇垣長官が一人で自決すれば済んだんじゃないか」と思った。そしてまた戦史を少しずつ読んでいくと・・・私なんぞが軽々しく言うべき言葉がなくなってしまった。去年、大分飛行場跡に建てられた簡素な碑(終戦後の出撃だったので名前のみで位階は記載されていない)を見たあと、これは絶対に作らないといけないと思った。今平和な時代に生きて何が幸せかって、こういう飛行機がキット化されているってことではないだろうか。モデラーは幸せだよ。
二週間くらい前だったか(五月の終わり)、夜10時過ぎ頃そろそろ布団を敷こうかなと思って窓を閉めようとした瞬間、網戸に何かがピカリ、と光るのを見つけた。
顔を近づけてよくみると、それは珍しい・・・ホタルだった。
もうホタルの季節? ちょっと早くない? うちの近所にはホタルの住むような清流はないと思うから、誰かが捕まえてきたのを放したのか。
神秘的なその明かりが、小さいけれど力強く瞬いているのをじっと見ていたら、ああそうか、中津留大尉が来てくれたに違いないと、胸が熱くなった。ありがとう。
模型の神様はちゃんと見てくれているんだね。
※1.中津留達雄大尉(海兵70期 大分県津久見市出身) 「指揮官たちの特攻」城山三郎著を参照ください
※2.二村治和一飛曹(甲飛十二期)は、最後の特攻機の中の一機を操縦していたが、途中鹿児島上空にてエンジン不調、川内市に不時着し生還している。「私兵特攻」の中ではこれらの生還した隊員たち(三機)から丹念に話を聞いている