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 大分県日田市豆田町の模型屋・アカシ文具店を出てほんの数分歩いて花月川にかかる橋を渡ると、昔の代官所のあったとかいう場所の近くを過ぎ、日田林工高校(昔は甲子園にけっこう出場しているので覚えている方もあるでしょう)のそばの白い壁と堀のある場所に出る。観光客向けの駐車場にもなっている。
 ここが、月隈(つきくま)城こと史跡永山城址である(この白壁はいつ頃作られたかは知らない)。
 1601年に、小川光氏という大名が築いた城で、その後1639年に代官が着任し廃城となったと思われる。しかし、幕府(代官所)が管理していたため、荒廃するということはなかったのが幸いだった。

 ただ、天守閣をはじめ、建築物はいつのまにか失われ、現在では石垣を残すのみ。

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 ふもとは月隈公園という憩いの場になっており、城は小さな丘の上にある。

 石垣は一昨年の熊本地震で崩落。近所の人は崩れる音を聞いたとか。恐ろしかっただろうなあ。

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 例の鉄橋復旧現場からも徒歩15分くらいかな。全部私の生活圏であります。
 ただ、ここ一年以上復旧工事のため月隈城の上までは登れない状態になってたんだよね。それがもうすぐ工事が完了するというので、今日「災害復旧工事現場説明会」が行われると聞き、石垣マニアとしてはわくわくしてやってきたわけです。災害転じて福となす。めったに見られないモノを見られるんだから。

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 さて、こんな説明板も用意されていて、集まった市民は60人くらいいたかな。一日二回開催される予定で、私は午前の部に行った。説明板の後ろの青い屋根は日田林工の剣道場。
 工事は、日田の田中建設株式会社が施工、株式会社埋蔵文化財サポートシステム大分支店が施工管理。もちろん大分県からの補助金で実施している。

 受付で全員にヘルメットが配られ、A3用紙の裏表に印刷された資料を受けとる。(今回の私の文章の多くはこの資料から引用させてもらってます。あくまで私の理解で書いているので、勘違い等もあるかもしれないと思います、きちんと知りたい方は、別の資料をご自分で調べてください。)

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 文化財課の方から永山城の説明などを受け、一同ぞろぞろと登りはじめる。写真上のほうに足場が組まれているのが現場の石垣。遠くからも見えるんだけど、これまではずっとブルーシートがかかってる状態だった。

 重機を登らせるために石段が埋められているので、足元は少々歩きにくい。天気がよかったのが幸い。
 下に見える穴は、古墳時代の横穴墓。大戦中は防空壕としても使われ、また昭和の時代は近所の子供たちの遊び場にもなっていた(模型屋のアカシさん証言)。

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 登るのは10分もかからないくらいの小さな丘で、下から見えた足場の組まれた石垣のところに到着。石垣のすぐそばが崖になってるけど、ここの崖にも半分埋まった石垣が見える。
 担当の人によると、ここは9万年前の阿蘇の大噴火のときの凝灰岩の崖だそうで・・・・

 えええ~っ、阿蘇が爆発してここまで溶岩が流れてきたっちゅうことかい!? 信じられんわー。
 すごいですね、阿蘇山。スケールが違う。変なところで感動する私。

 で、この崖は切り立っているらしいんだけど、恐らく古墳時代の人が削ってそこにあの横穴を彫ったのではないかというんですよ。古墳時代の人も、なかなかやるのう。

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 ここが大手石垣と言われている部分で、大手門がこの左側にあったといわれている。左側部分の土の中にも石垣が埋まっているらしく・・・できればそれらもすべて発掘して復元してほしいものだ、と妄想が広がる。

 左隅の石などは明らかに割ってまっすぐに整形した石だけど、あとは川原石をそのまま使ったものも多く、それが特徴なのだという。もちろん、すぐ近くの花月川の石だろうね。地産地消。
 野面積みというんだと思う。味わいあるでしょ?

 この石垣の上に櫓があったのではないだろうか、という雰囲気するよね。しかし、今回発掘調査したけど、残念ながら建物の遺構は出てこなかったそうです。

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 というのも、この石垣、400年間に数回にわたって崩れて積みなおした跡があるそうで、当然櫓なんかも倒壊したでしょう・・・日本は地震多いんだなあ。

 大手石垣の上に登ったところ。これが今回の白眉で、こういう場所を見られることは普通ないんです。やったー!! って感じ。わくわくする。
 城の石垣って、表側から見える大きな石の裏に、小さい石をこんなふうに詰めるんだけど、これを裏込め石といいます。一昨年、熊本城の石垣が崩壊しているのを見学したけど、そのときも裏込め石が中から出てきているのが見えた。

 で、もともと入ってた石は丸い石でしかもけっこう乱雑に入っていて、間に土が詰まっていたそうな。そうすると水が通らなくなって石垣が崩壊しやすくなるそうです。だから今回は、こんなふうに石と石がかみ合うような形状のものを使い、また、丸い比較的大きな石(もともと裏込め石だったものの中から大きなものを選んだそう)を間に少し並べているのがおわかりでしょうか。これらは唐津城や福岡城などのやり方を参考にしているそうです。石は手を使って丁寧に詰め込まれています。こういうふうに違う大きさの石を並べることで地震などの衝撃を和らげるらしい。

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 こんなふうに、人間の手作業で細かく詰め込まれている。
 しかしこれで絶対に崩れないとは言い切れないそうで(計算することが難しいとのこと)、とにかく最善の策をとっているそうです。
 ちなみに、線路にも石を置いてあるのは、やはり衝撃を吸収するためだそうです。へぇ~すごいぞ、石!!

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 担当の人が説明してくれているところ。説明はとてもわかりやすく、上手だった。
 こちらの石垣は大手石垣ではなく、天守台(天守閣が建てられている場所)だったといわれている石垣。

 石に番号が書いてあるのは崩れた石と、その隣の石で、それらは一度取り除いて出来得る限り元通りに積みなおしたんだそうです。元あったとおりに復元するというのが基本なんだろうね。一昨年の飛燕の復元もそうだった。今回も、昔の工法で、なるべく昔のやり方で復元している。
 でもなー、昔の工法ってすごいよねぇ!! コンピューターとか機械とか何もなかったのに、どうやってそんな優れた工法を発見できたんだろう。
 石の間に小さな石を詰めているのももちろん強度のためです。

 実はこの永山城が史跡に指定されたのは、なんと一昨年の2月、熊本地震の二か月前なのである。ギリギリセーフ!?で指定され、これもまた不幸中の幸い。史跡だから今回の復元費用の予算が大分県から出たのではないかしら。
 私も含めて、何人かの熱心なオジサン共が担当者を質問攻めにしながら、ふもとに降りた。
 名残惜しかったけれど、担当者に御礼を言ってその場をあとにした。

 石垣ロマンに浸った、興味深い素晴らしい見学会だった。