つれづれプラモ製作記

マイペースで作っているプラモデルのブログです

2017年03月



 脚や爆弾などを作っておかねば。整形したりするのが案外面倒なんだよね。

 爆弾はなんと800kg爆弾。戦闘機は250kg爆弾までだよね? さすが艦爆、力持ち。
 いやほんと、男の人が重いものを「ひょい」と持つのはいつ見てもびっくりするし、ホレますね。

 脚カバーはキットがすでに端の部分を削ったような感じになってるんだけど、それをさらに削って薄くした。
 実機みると脚カバーってペラペラなので、その感じに少しでも近づけたい。
 小さい爆弾みたいのは推進用ロケット。写真でこの機体を見ると、推進用ロケットがついてるかどうか定かではないんだけど、まあよく見えないってことにしよう←おい!!



 日の丸と敵味方識別帯をマスキングして裏側の明灰白色を塗装。
 裏側はリベット打ってないのでなんとなく寂しい。

 日の丸まわりの赤い色がなかなか隠ぺいされないので少し焦る。先に黒でも吹けばよかったのかな
 今回は先に銀色は塗装せず、剥がれはあとから筆で描くことにしている。というのも、この機体はそんなに派手に剥がれていない気がするので。

 以前もご紹介した「私兵特攻」(新潮社)で知ったんだけど、1845年8月15日にこの彗星以下11機のほかに、8月16日に三機の一式陸攻も大分飛行場から飛び立っているんだよね(うち二機未帰還)。終戦後の出撃だったから特攻とも戦死とも扱われず(後日、戦死と認定)、歴史の闇に葬り去られている(ほとんどの乗員の名前は不明だという)。無念と言わずしてなんと言おう。なんかこの一式陸攻も作りたくなってきた。

 特攻のことを知れば知るほどその理不尽さ、その悲しさに胸がふさがるけれども、こういう機体がキット化されてるのが何より私たちの幸せってことかもしれないよね。同時に人間の営みの恐ろしいまでの理不尽さというかわけのわからなさ・・・吉村昭氏はそういう人間の不条理な営みを「武蔵」という戦艦を通じて描いたと書いていましたが、ほんとにそうだと思う。

 そしてそれこそが「戦争」というものが人を惹きつけてやまない理由なんだろうね。変な言い方だけど、私達は「戦争」が好きなんだよね。



 で、マスキングしました。
 やってみると早いんだけど、やるまでが時間かかる。人生そういうことが多い。ああーこんなことなら早くやればよかったということが。

 48だから簡単・・・と思ってやったけど、なんか写真撮るとがっくり。

 黄色いセロテープです。縦横どちらもスパッと切れるから気持ちいい。透明パーツにいきなり刃を当てる方法。ドキドキもんですよ。ふふふ。女って意外と大胆というか大雑把というか緻密さのカケラもない。

 透明パーツがものすごく厚いので、切り離して削って磨いたら完璧かもしれない。
 でもなー・・・とまたウジウジ考え始める。ああーダメじゃん、やってみると早いって今言ったばかりなのに。



 1945年8月15日午後四時過ぎ大分航空隊の西日の当たった日の丸、を塗装する。

 ・・・ってなんじゃそら?意味不明・・・と思うでしょうが、こういう設定が大事なんです。それがないとただの彗星になっちゃう。これはそこらにある彗星とは違うという思い込みが大事なんです。

 しかしそうなるとやっぱりキャノピーは開いてるほうがいいんだよなあ。やっぱ切り離してみるか!? でも薄く削るのは大変かもね・・・ムスタング作ったときに何度も磨いてるうちにキャノピーが薄くなっちゃったという事件はありましたが(汗、そもそも透明パーツとはあまり相性がよくないしね私。やめとこう。

 翼端灯だけは作るつもり(透明パーツ化されていない)。とはいえ久しぶりだから上手く入るか・・・もとい、うまく作れるかわかんないけど。あ、なかなか入らないと焦る人がいますが、あれは全然焦らなくていいんですよ。何度もやり直せばいい。模型と同じですね。

 というわけでゆっくり、すり合わせていきましょう。



 恐る恐る、透明パーツを置いてみる。
 不思議なもので仮組のときはなんとかなったのに、実際に胴体を接着するとなぜか胴体が太って合わなくなることもあるので。

 少し胴体の幅のほうが(透明パーツより)広い気がするけど、まあ押さえつけて接着すれば何とかなるんじゃないかな。私には許容範囲のような気がする。
 ふふふ、ファインモールド恐るるに足らず、ですわよ。

 あ、キャノピーのマスキングをしなくちゃだった(汗 あーあ面倒くさい。キャノピーと小物作りを平行してやっとくのが飛行機モデルをさくさく作るコツですね、とか言ってまだやってねぇよ私。毎度毎度同じことやってるのにちっとも学習してない。

 3/23の11時半頃、うちの上空にやってきたUH-60。

 私のカメラではこれが限界。曇ってるせいか?わりと低空を飛んでいた気がする。三回くらい私の上を旋回して帰っていった。ありがとう。大村か佐世保あたりの機体か?
 
 あまり楽しくないことは書きたくないんだけど、書かないとわからないこともあるので書きますが、今月に入って一日おきくらいに別府に行ってますが(特急で片道2時間かけて行き病院で5時間母のそばで過ごし、そのままトンボ帰り)、母の容態はだいぶん落ち着いてきた様子とはいえ、一日のほとんどはベッドで寝ていて身動きはできない(両手拘束されてるのを見るのは辛いけどどうしようもない)。もともと両親は老人施設入所しており母は介護度2だったんだけど、今後リハビリを続けても果たして同じ施設で生活できるかどうかは微妙かもしれない。そうなると新しい施設を探す必要がある。また、去年から実家の始末をはじめており、そちらも大変なんだよ。古い空き家は近所の人に迷惑もかけるので頭が痛い。去年の地震で瓦がずれてその瓦が隣家に飛んでいって・・・何度も謝りに行ったり。
 実は先週の日曜日くらいだったっけ、なんか急にどっと疲れが出てきて「こりゃイカン」と思った。一日おきに行くのはいったんやめて、もう少し間隔をあけようと思った。メンタルが弱いもので・・・。

 この先どうなるか、まだ見通しがつきません。今年はいったいこれからどうなるのか。不安もいっぱいだけど、こんなときこそ模型で気分転換だぁ!! と思って、例のパンダモデルの危険度120%の箱を開けてしまった。ま、いいさいいさ、安いもんです。

 こっちも大事な気分転換ツール。

 実は去年の秋から体調悪くてあまりお酒を飲んでいない。
 いまも体調を崩すと悪いのであまり飲まないようにしているけど、少しずつ復活したい。私のささやかな楽しみだから。
 エピス新製品をチェック。でもやはり香りのついたのはあまり好きじゃないな私。まー大して味がわからんってことだね。やっぱスーパードライでいいや。

 タミヤのグラスはきれいな泡ができて美味しい。ハセガワにもグラスを作ってもらいたいな・・・。



 いまかいまかと待っていた方も多いと思いますが>やっちまった画像

 もういいや主翼接着しちゃえと、一昨日でしたっけ、疲れてるのにやめときゃいいのに強引に接着したもんですから・・・

 なんか上反角つきすぎてない!? カッチョわる~!!



 ああーもう~こうなりゃ力ずくで・・・バリバリバリ・・ごめんねぇ~すいせい~

 なんとか隙間を作ってプラバンを挟んで角度を訂正したのがこの写真。
 こんなもんでしょうか!?
 手持ちの本によると、上反角は9度くらいの様子。9度っていっても・・・分度器もってねぇしどうやって測ればいいのだ。
 彗星四三型「直角90度の1/10だろ? っていうか誰かの製作記に書いてあるだろ? ネットで検索して調べろよ!!」
 きらら「嫌ッ!! ほかのオッサンの超絶製作記とか絶対に見たくない。もうどうなってもいいのッ!!」
 彗星四三型「それ困ります・・・(汗」

 もぅー、面倒くさいしどうでもいいっ、こうなったら女の勘よ。実機写真見てもあんまり上反角がついてない感じがするし、こんなもんでしょ。



 機首インテーク後部の変な切り欠き。800kg爆弾のためかな? 
 ここもいきなり「削れ!!」という指示がある。案外こういうのきれいに削るのは難しい。

 今月に入って二日に一度は別府の病院に通う日々。体もきついし、日にちの感覚もなくなってきている。今日は何曜日だっけ?

 モデルアートの四月号飛燕特集を昨日の汽車の中で熟読。
 去年の飛燕復元プロジェクトのリーダー冨田さんのインタビューが載っている。正直スケビのほうが十倍面白いしこちらは一応最低限の質問をまとめましたという感じだけど。改めてこのプロジェクトに興奮する。
 本当は書きたくないんだけど、あのとき神戸でスーパーチャージャーのモックアップが展示されてましたよね。あれは川崎の明石工場のモーターサイクルカンパニーでニンジャを作ってる人たちが作ったんです。もちろん彼らもハ-40の過給機なんてこれまで見たこともない。だけど、それを資料から読み解いて作っちゃったんだそうです。すごいよね、興奮する話。だからこそ、あの場にH2Rが置いてあったんです(もちろんそれだけが理由ではないけど)、そこがつながらないと話が面白くない(この話はスケビに掲載されていた)。
 ハセガワの32飛燕を使って、知覧特攻記念会館のドアからこの飛燕が出るかどうかやってみたという話もモデラーにはわくわくする(ああーまた書いちゃった。本当はスケビを買って読んでほしい)

 さてモデルアートに戻ると、「川崎の航空機がタミヤから久しぶりにキット化されたことは、モデラー的には今回のプロジェクトの一番大きな成果」とまで冨田さんは言っている(ご自身もモデラー)
 土井武夫さんの横顔も紹介されており、知り合いが四人も作例を掲載してたりして楽しかった。ここまで行ったらタミヤの設計者の話とかもあればいいなあと思った。まあそれがなくても「設計者はこういう意図だろう」とキットで読み解くのがモデラーの楽しみかもしれないけど。

 実は去年もモデルアートは飛燕の特集があり、今回そちらも読み返したりして、再び感動。
 思うに、同じモデラーでもこういう考古学的なことに興味を持つ人とそうでない人があり、また復元は「ディテールを知るための資料」とだけ捉える人と、私みたいにそのプロジェクト自体に夢を感じる人と二通りありそうです。

 彗星作ってるのに飛燕? って思いました? そりゃもう、去年実機見たから飛燕作りたいに決まってるっしょ。そんなこと言わなくてもさ・・・でもとりあえず彗星作る。ここは我慢のしどころ。



 とりあえず機首と胴体を繋げたぜ!! 

 ・・・おおっ、長いっ!!

 彗星四三型「いや、どーも!! 久々に褒められたなぁ・・・」
 きらら「ちなみに長いって言われるのはうれしいですか?」
 彗星四三型「まぁね」
 きらら「でも流星改のほうがもっと長い気がする、ちょっと測ってみようか」
 彗星四三型「いかんいかん比べるのはダメっ!!(汗」

 でも単座の戦闘機ばかり作ってると新鮮♪ですね。たまには長いのもいいなあ。
 下側はさほど綺麗になってないけど、これでよしとする。あと主翼や風防のすり合わせかぁ、まだまだ先は長い。

 母の手術は昨日無事終わったのでご報告。ご心配おかけしました。こんな年寄りに手術なんか耐えられるのかと思いきや、最近は90代の人でも手術するらしい。(今回の場合)しないと寝たきりになる。
 手術前の説明には黒いタイツと短いスカートで臨む(いやそれ必要ないやろ!!) パソコンの画像を見ながらの説明が具体的なので少し気持ち悪くなりそうになる。こういうの苦手。実は妊娠中の超音波というのも苦手だった。お腹の中の映像を毎度検診のとき見せられるんだけど、あれは正直断りたかった。自分のお腹の中をリアルタイムで見るなんて気持ち悪い。
 「一年に50人程度手術していますが、実は一年に一度あるかないかくらいのひどい折れ方です」と言われる。また「50人に一人くらいの割合で亡くなることがある」とも告げられる。しかし手術しないと「痛い」「寝たきり」となるわけで、もう選択肢は手術しかない。
 「先生の腕を信じてお願いします」と頭を下げる。黒いタイツで先生がやる気出してくれるといいんだけど。
 そんなわけで、昨日が手術だった、経験した人はわかると思うけど手術室前で見送るときって(私は二度目ですが)何とも言えない寂しさがある。その後5時間近く、待合室でひたすら終わるのを待つ。あ、昼食はちゃんと食べに行ったけど(息子の脱臼手術に比較すると落ち着いていた)。ようやく看護師に呼ばれ病室に戻った母と対面してホッとする。麻酔がきいてるせいか痛みはないという。前の晩、「もう死んでいい」などと弱気発言を繰り返しこちらもすっかり落ち込んでいたのとは対照的に、あれこれ話しかけてくる。しかしまだこれから先、リハビリに取り組んでくれるのか、母の気力が続くのか、不安な要素はいっぱい。しかしまあとりあえず今日は生き延びた。
 医者はうれしそうにレントゲン写真を示しながら「正直難しかったですが、けっこう上手くできたと思いますよ」と意気揚々。素人目にもなかなかうまくできているのがわかる。「じゃこれからビールでも」と言われるかと思ったけど言われませんでしたね。 
 それにしても手術って究極の「切った貼った」なんだなあ。自分の失敗で他人が死ぬこともある仕事って、やっぱすごいな。それも「先生お願いします助けて下さい」と頼まれた人間を死なせてしまうことがあるんだから、医者はそういうことをどうやって乗り越えているんだろう。数時間にわたる手術自体も含めて、その体力精神力ってすごい。坂井三郎と渡り合えるかもしれない。

 「強く美しいもの」(土門拳/小学館文庫)を汽車の中で読み終えた。5年くらい前に買ったけどそのまま放置してて、今回ふっと読んでみたらすごい本だった。

 もうこのタイトルがすべてを言い表している、強く美しいもの、私たちモデラーの大好きなものだよね。
 ぐーっとクローズアップして撮る写真、まさにモデラーの見ている世界にも通じるような・・・まあとてもじゃないけど、こんなレベルにはなれないけど、しかし少しばかり親近感を持ってしまう。
 
 「大事なモノは見れば見るほど魂に吸い付き、不必要なモノは注意力から離れる」

 これですね、この境地を目指して、今日からまた頑張ろう。

 いろいろ忙しいけど、その合間を縫って案外進んでいる彗星。去年、大分海軍航空隊・最後の特攻隊の地を見学に行ったあとどうして作りたくなり、やむにやまれぬ思いで作っている。だってさ、大分県人が作らんで誰が作る!?

 金星エンジン。いまひとつ資料不足、ネットで見てもよくわからない。インストの指定は真っ黒。真っ黒だと何も見えなくなってしまうので銀でドライブラシしてみた。実機とは違うかもしれないけど。
 あと、プラグコードも適当に伸ばしランナーで作ったんだけど、写真撮るの忘れてた。



 いつもの緊縛。もうええわ、あとのことは知らん!!って感じに左右を合わせる瞬間がいいね。ここで一挙に妥協のラインを越える。

 左右の合わせはそんなにひどくない気がする。
 このキットはずいぶん他人からは脅されてるので、かなり大変なんだろうなあと覚悟を決めてるせいか、何が起きてもびっくりしない。



 と、思ってたらやっぱり大変だった・・・・。
 すり合わせ、整形の上手い人ならどうってことないんだろうけど、私はそれなりに手間取っている。

 プラペーパーなどはさんだり、溶きパテで埋めたりしながら少しずつ前に進んでる。ビジュアル的にはあまりきれいなもんじゃないですが、まあこんなものかと、どんどん妥協が積もっていく。
 ただし以前と違うのは、そんなに苦にならないというか、どう埋めていくか考えるのも楽しんでいるってところ。これもまた経験値でしょうか。

 こんなふうな分割になっている。

 液冷と空冷はたぶん胴体が違うだけなんだろうね、それで先端部分がこういうふうに分割されてるんだろう。金型代の節約なのかな。
 しかしそのせいで、カウリングのみが別パーツというのとは違って、接合が(私みたいな下手くそモデラーには)少し面倒になる。
 まっ、すり合わせの練習と思うしかない。

 胴体下側の分割は推進用ロケット(だっけ?)を付ける部分で、ここも微妙に合わないのですり合わせの練習。
 垂直尾翼、主翼も微妙に合わない。すべて調整を必要とするのでこれ一機作るとマジで飛行機プラモ作りが上手くなりそうな気がする。
 でも例によって私はテキトーにしかやらないので、あまり上手くはならないだろう←おい!! 

 えー、一昨日と昨日も母の病院に行ってきましたが、手術日が決まり(明日)ほっとした反面、熊本行きは中止にしました。ごめんなさい。
 ちょくちょく母のところに行ってやりたいし、それにたぶん私の体力的にも無理。すでにかなり大戦末期的にヨレヨレです。

 宣伝してましたとおり、熊本支援の気持ちも込めて、良かったら見学だけでも行ってみてくださいね。
 モデラーズミーティングイン熊本 3/19 10~16時 くまもと森都心プラザ6F
 



 久しぶりにファインモールド1/48、彗星四三型の続き。しばらく製作記を書いていなかったので書かなくちゃならないことがたまってるね。

 二週間前?くらいにはすでにリベットは打ち終わっていた。
 見てのとおり、適当なリベット風なものなので、あっというまに終わる。そして上面しか打たないしね。

 ま、演出です。濃緑色に塗装するから、あんまり目立たないだろうしね、なんかリベット風のものがあるなというくらいでいいの。



 この部分に打ちました。主翼上は特にリベットが密みたいなので、半分くらいに割り引いて打っている。
 なんでもそうだけど、きちんとしないと気が済まないという人もいるよね。そういう人はこれ全部打つんだろうなあ。



 それから、コクピットにスミ入れした。
 単に汚くなっただけ・・・という感じもするけど、陰影をつける、これも演出。
 なんちゃって配線はどれくらいすりゃいいのか加減がわからない(わかりやすい資料もない)ので、怪しげにちょこっとしただけ。でも自己満足~!!

 コクピット作るのが楽しくなくなったらもう、飛行機作るのはやめようと思ってる。
 そのときが引退の潮時だね。

 「第七駆逐隊海戦記」(大高勇治/光人社NF文庫)

 火曜日の昼前ケアマネージャーから電話、悪い予感を感じながら受話器を取ると母が転倒して救急搬送されたという。やれやれ。
 一時間でとりあえず準備して汽車に飛び乗り、駆け付けた病院で見た母の姿は・・・大腿骨の付け根で骨折して骨が大幅に上にずり上がり、それを引っ張るために足に金属の棒を串刺しにされてオモリ4kgで引っ張っているという・・・見た瞬間気を失いそうになった。医者は「昔からやる定番の治療です。局所麻酔で三秒で突き刺すんですよ、三秒です」と得意げだったが・・・。
 しかし問題はその骨折以上に肺炎が問題で、その「三秒医者」は「覚悟しておいてください」と静かに言い放った。わりと男前なんだけど、言うことはキツい。「うちの病院ではこの肺炎の治療はできないので、明日10時に〇〇病院に転院することにします」と想定外の急展開。私はホテルをとり、その日は宿泊、翌朝10時に救急車乗車初体験。意外と揺れる揺れる、乗り心地最悪。
 転院先の病院の主治医から早速現状と今後の治療予定の説明を受ける。エネルギッシュで仕事の出来そうなイイ男でざっくばらん、こちらの話もきちんと聞いてくれる。見たとたん好感を持てた(あとで聞くと母も「いい先生ねぇ」と早速気に入った様子)。それにしても医者にイイ男が多いのは、自分に自信を持っているからか。これは人間としての基本かもしれない。
 昨日とは違って比較的目を開けて話もできる母を見ていると、まあ、あとはもうレットイットビーだなあ、なるようにしかならないのか・・・そう思うとなんとなくお腹がすいてきたので、病院の最上階にあるレストランで一人ご飯を食べる。眼下に広がる別府湾の景色はなかなかのもので、沈みがちな心を癒す。
 そうこうするうちに遠方より妹が到着、いつものようにあれこれ妹に叱られながらも二人になると心強い、肉親と話しをすると気持ちが軽くなる。で、せっかく来たのだからと私はもう一泊、妹とささやかにコップ一杯のビールを飲む。ほかにもいろいろな病気を持っている母だから、もう明日のことはわからないけど、それは人間の定めというものよ。

 で、本のことを書いてなかったね。涙と笑いの駆逐艦乗りの手記。大和や武蔵がエリート校なら、駆逐艦乗りは手の付けられない底辺校、しかし普段は手の付けられない不良でも、いざとなったら一致団結・不屈の駆逐艦魂で戦い抜く、しかしもちろんその任務は華々しいものは皆無で「まったくやってらんねぇよ」的な貧乏くじを毎度毎度引かされどおし・・・ただ、作者の「日本は物量で米軍に負けたとされているけれど、実は土木工事戦で負けたのだ」という意見は面白く感じた。飛行場を作ったりする土木工事用のトラックや器材がなかったそうです。また、高高度偵察技術(レーダーなど)でも遅れを取ったことも大きいのではというのが作者の考え。なるほどなあ。

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