昨日から面白い本に夢中になっていたので二日間更新できませんでした。訪問いただいた方々には申し訳ない。
面白かったよ。「文系の壁」(PHP新書/養老孟司氏の対談集)
少し前に出ている本なのですでに読まれた方もいるでしょう。
私は言うまでもなく自分を文系のヒトだと思ってますが、文系のヒトって理系の人から見ると一体どうなのか。興味しんしん。
母校は文系だけの大学だったので、学生時代も理系のヒトとはほとんど交流なかった。ロックやってたことがあるので、工学系の大学のバンドとは交流あったけど(汗、音楽の話しかしないしね。
熱い期待をこめてページをめくる。
最初の森博嗣氏(確か小説を一杯書いてますよね、本屋に置いてあるのは見たことがあるけど読んだことはない)との対話がいちばん刺激的で、文系のヒトにとっては腹立たしいこともいっぱい出てくるけど、「人を怒らせる」というのも活字にとっては大事なファクターなのでそれを楽しみつつ「気持ちよく怒りながら」読むと楽しい。
面白い部分はたくさんあったけど、たとえば森氏が語る、
「こちらが何かについて説明したとき、文系の人は「わからない」と言うけれど、それは「説明された意味がわからない」という意味ではなくて、「わかっているのだけれど、賛成できない」という意味なんですよね」というくだり(原文のままではない)。
これは痛いところを突かれて気持ちいいくらいだった←おい!!
確かにそういう言い方をすることがあるような気がする。相手の意見を全否定、シャットアウトする言い方ですよね。それじゃあ議論にならないよね。
で、そこを読んでいるとき私は愛読書「徒然草」の中の一説を思い出した。
「お互い言いたいことを話してみる中には「なるほど」と聞く価値のあるように思えることから、少々意見の違う人とは「私はそうは思わない」と時には議論し、「そういうわけだから、こうなのだ」などと大いに語り合えば、非常に精神的にも充実すると思うのだが・・・」(第12段、ちなみに私の意訳です、これが絶対正しいという解釈ではありません)
この段の初めに、「おなじ心ならん人と」と書いてあり、「同じような心を持つ人と」という意味ですが、この「心」というのは単に気持ちというより精神(ベネッセ古語辞典)もしくは考え方というか・・・
上記の文章のあとには、「自分とは考え方が違う人とはこういった話はできない」と嘆いている。
吉田兼好が理系だったかはわからないけれど、それに近い思考のできる人だったのだろう。
日本人はなかなか「私はそうは思わない」って言えないよね。だからきちんと議論でできないんだけど、議論するって難しい。言葉でコミュニケーションするのは本当に難しい。迷路ですよ。
拙ブログのコメントやメール、お会いしたときの話などを聞くと、私の書いたものも時々全く違う方向に解釈してる人がいますが、がっかりすると同時に、いや待てよ、その人が読んでどう思うかは自由だから、私の意図とは違う解釈してもらうのも面白いのかなと思う。
「文系の壁」に戻って、前述の森氏は「社会や人間などあやふやでとらえようがないものを、どうして文系の人は理屈で解釈してわかったような気になれるのか不思議でなりません」と言っている。
ここ読んで、ああー河合隼雄先生が生きていたら、対談してほしかったなぁと思った。
面白かったよ。「文系の壁」(PHP新書/養老孟司氏の対談集)
少し前に出ている本なのですでに読まれた方もいるでしょう。
私は言うまでもなく自分を文系のヒトだと思ってますが、文系のヒトって理系の人から見ると一体どうなのか。興味しんしん。
母校は文系だけの大学だったので、学生時代も理系のヒトとはほとんど交流なかった。ロックやってたことがあるので、工学系の大学のバンドとは交流あったけど(汗、音楽の話しかしないしね。
熱い期待をこめてページをめくる。
最初の森博嗣氏(確か小説を一杯書いてますよね、本屋に置いてあるのは見たことがあるけど読んだことはない)との対話がいちばん刺激的で、文系のヒトにとっては腹立たしいこともいっぱい出てくるけど、「人を怒らせる」というのも活字にとっては大事なファクターなのでそれを楽しみつつ「気持ちよく怒りながら」読むと楽しい。
面白い部分はたくさんあったけど、たとえば森氏が語る、
「こちらが何かについて説明したとき、文系の人は「わからない」と言うけれど、それは「説明された意味がわからない」という意味ではなくて、「わかっているのだけれど、賛成できない」という意味なんですよね」というくだり(原文のままではない)。
これは痛いところを突かれて気持ちいいくらいだった←おい!!
確かにそういう言い方をすることがあるような気がする。相手の意見を全否定、シャットアウトする言い方ですよね。それじゃあ議論にならないよね。
で、そこを読んでいるとき私は愛読書「徒然草」の中の一説を思い出した。
「お互い言いたいことを話してみる中には「なるほど」と聞く価値のあるように思えることから、少々意見の違う人とは「私はそうは思わない」と時には議論し、「そういうわけだから、こうなのだ」などと大いに語り合えば、非常に精神的にも充実すると思うのだが・・・」(第12段、ちなみに私の意訳です、これが絶対正しいという解釈ではありません)
この段の初めに、「おなじ心ならん人と」と書いてあり、「同じような心を持つ人と」という意味ですが、この「心」というのは単に気持ちというより精神(ベネッセ古語辞典)もしくは考え方というか・・・
上記の文章のあとには、「自分とは考え方が違う人とはこういった話はできない」と嘆いている。
吉田兼好が理系だったかはわからないけれど、それに近い思考のできる人だったのだろう。
日本人はなかなか「私はそうは思わない」って言えないよね。だからきちんと議論でできないんだけど、議論するって難しい。言葉でコミュニケーションするのは本当に難しい。迷路ですよ。
拙ブログのコメントやメール、お会いしたときの話などを聞くと、私の書いたものも時々全く違う方向に解釈してる人がいますが、がっかりすると同時に、いや待てよ、その人が読んでどう思うかは自由だから、私の意図とは違う解釈してもらうのも面白いのかなと思う。
「文系の壁」に戻って、前述の森氏は「社会や人間などあやふやでとらえようがないものを、どうして文系の人は理屈で解釈してわかったような気になれるのか不思議でなりません」と言っている。
ここ読んで、ああー河合隼雄先生が生きていたら、対談してほしかったなぁと思った。