中津城1

 これまで何度か中津の展示会には来ているが、一度も中津城は訪れていなかった。
 今回はようやく訪れることができてうれしい。しかし歩いてみてわかったんだけど、展示会場から目と鼻の先でした(汗 

 城の南側にあたる、内堀。ここの説明板によると、石垣の両端は直線的だが、真ん中あたりに向かってゆるやかに湾曲して(へこんで)いる。これは「輪どり」という石垣を崩れにくくする方法だという。写真でわずかに感じられるだろうか?

 あ、先日熊本城のことを書いたとき、加藤清正の石垣の耐震構造に問題があったんじゃないかとか、失礼な冗談を書いたけど、日本の石垣はちゃんと地震のことを考えて作られているそうですね。
 昔の人をバカにしちゃいけない。最近、いくつか本を読んでみてわかりました。

中津城2

 このようにお城の石垣は必ず直角に折れ曲がっている場所がある。
 これは横矢掛けといって、二方向から攻撃するための構造。

中津城

 こちらは、上の写真の石垣を内側から見たところ。

 赤矢印の部分に向かい合わせの階段があり、これを雁木といい、兵士が二方向に駆け上がることができる(そして素早く戦闘態勢をとれる)
 こういうことをちょっと知るだけで城を見るのがすごく面白くなるでしょ?

中津城3

 北側にまわる。実は天守については実在したという歴史的史料がないので、想像で作られた模擬天守と言われるものが建っている。それはそれでいいんじゃないかと私は思う。

 足がくたびれてきたので、周りを歩くことに専念した。天守には上がらなかった。石垣が見れればそれでいい。

 それにしても、この落ち着く気分は一体なんだろう。空気が違うんだよね、城の敷地に入ったとたん・・・。ほっとする。なーんか、忠興公から「よく来たね」と歓迎されてる気がする。

中津城4

 一番見たかった石垣。
 天守下の部分なんだけど、ご覧の通りはっきりと継ぎ目がわかる。向かって右側が黒田官兵衛、左側が細川忠興、二人の石垣がくっついているという、面白い眺めである。
 先に作ったのは黒田で、1587年に築城を開始、この石垣は黒田が落とした別の城から持ってきた石で作ったという(石を割るのは大変な労力なので、リユースをしたのだろう)

 その後、転封した黒田にかわり、1600年関ケ原の戦いの軍功により細川忠興がここに移り、築城の続きをした。去年の一月、大分県日出町の暘谷城を見学した記事を覚えている方もいると思うけど、忠興公が暘谷城の縄張り(設計)をしたのはその頃のことです。妹婿の城なんだよね。鷹狩と称して何度も暘谷城の工事の進み具合を見に行ったと言われてますが、実は忠興公ってば鷹狩は嫌いだったとか本には書いてある。なんじゃそれ。見え透いた口実ってやつか。

中津城6
 
 その後忠興公はいったん小倉に移り(1602年)、その後1621年に再び10年くらい中津城で過ごす。城下町の整備などをしたそうです。戦国の世から太平の世へ。その移り変わりの時代でしょうか。

 中津城の敷地は直角三角形みたいな形をしています。

中津城5

 南西側にあった、水門跡という場所の石。巨大な石を使ってる場所は大事な場所だという。

 水門っていうから、川の水をここから堀に入れていたのではなかろうか。
 写真でわかりにくいかもしれませんが、ゴジラの歯形みたいのが中央の巨大な石のカドについている。これが矢穴といって、いくつも楔を打ち込んだ跡。楔を叩いていくと石が割れるというわけ。だからこの石は元々さらに巨大だったというわけです。

中津城7

 もうひとつ、巨大な石に感動。

 こちらは内堀を出て、少し東方向に歩くと、小学校があるのですが、その塀の一部として保存されている、大手門の跡(門そのものは失われている)
 ここも城で大事な場所、大手門ということで、巨大な石が使われている(見る人に権力を見せつけるためだという)。右側の石の高さは、私の背丈(155センチ)よりも少し大きかった。

 最後にこの石垣を見ることができて、今回の石垣ツアーは大満足なものになった。
 石垣うんちく、楽しいっしょ? ぜひ貴方も楽しい石垣の世界へ!!

 というわけで、不思議と忠興公ゆかりの場所が続いています。歴史に詳しい人はご存知だと思うけど、忠興公は、めっちゃ気が短いキレッキレの男で、しかも茶人としての側面も持つ、なんかオモシロイ人←すっかり気に入ってる