九七艦攻のエンジン。左が栄で、右が光。どちらも中島製品である。なぜ中島が栄を作ることになったか、というのは吉村昭「零式戦闘機」に書いてあったんだけど、すぐ忘れる。あーダメだこりゃ。
そういえば話がそれますが、先日読んだ本に零戦のことをゼロ戦と書いてあって、違和感を感じた。発音したらどちらも「ぜろせん」なんだけど、ゼロではなく零だと思う。零式だもんね。
また、ほかの本に「kamikaze attack」と書いてあった。そりゃ外国ではそう言われているだろうけど、日本語の本にわざわざそんなこと書くか!?
などと、表記が気になるお年頃。
ご覧のように、9気筒の光のほうが直径が大きい。だからカウリングが太くなってしまい視界が悪くなった、と「図解・軍用機シリーズ14 九七艦攻/天山」に書いてあった。
光は良いエンジンだったようですが、パワーを大きくして、コンパクトにするためには、複列にしたほうがよかったのかな?
この後ろにつける排気管に穴を開けた。別に穴開けなくて黒く塗装するだけでもよい気もしたけど。一応儀式的に。雰囲気がハセガワとはなんとなく違うなあと思う。
いつもの柔らかめの鉛板みたいなやつで、なんちゃってシートベルトを作った。資料がほとんどないので、いい加減。
ふと思い立って、12型は操縦員を乗せてみようかと思う。
・・・・あっ、両方にシートベルトつけた後だった。あーあ。計画性ゼロですな。こういう無駄が多い。しかし人形乗せたりしてたらまた時間かかるなあ。これで間に合うんかなあ。
私の父のアルバムに貼ってあった写真。昭和19年。
「予科練へ征く先輩を囲んで」とある。父は中学二年生、先輩は三年か四年か。
先日帰省した息子と、このアルバムを一緒に見た。
息子「まだ15歳くらいで戦争に行ってたんだよね? 「永遠の0」に出てきた」
私「そう、15とか16とか。たぶんこの写真の先輩もそれくらいの年齢だろうね」
夜更け、息子と予科練の話なんかしていたら不思議な気がしてきた。生まれる時代が違っていたら予科練に入る息子を見送っていたかもしれない。そんなことをふっと思ったので、珍しく九七艦攻に搭乗員を乗せようかなと思ったんだよね。
昭和19年だから、甲飛14か15期だろう。もう乗る飛行機がなかった時期。飛行場作りに駆り出されたのか、それとも・・・。無事郷里に帰ってきたのだろうか。
「若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜に錨」 (「若鷲の歌」よく父が歌ってました)