つれづれプラモ製作記

マイペースで作っているプラモデルのブログです



 さてどんどん行っちゃう。人生は滞っているけど模型だけはさっさと行きたい。

 たいがい、ヘリのキットは胴体パーツは一体になっているのに、これは途中で分割されている。
 こんなのうまく合うのかな。なんだか不安。そういえば、この前のAH-1Zもそうだったなぁ。あれはなんとかうまくいったけど。

 中身がちゃんと収まるのかな?



 胴体左右合わせて緊縛。

 ってこの隙間は一体何ですか(汗
 埋めろよ・・・いやその前に削れ>自分

 さらにエンジン入れるの忘れてて、あわてて接着、あ、色塗ってなかった、まぁいっか。右側はハッチを閉じるから。
 今回も左側だけ開けるつもり。

 スリ合わせの技術も大事な模型のテクニックだよね。技術というか、粘り強さも必要かも。
 ここをもう少し頑張れば、あとが楽になるのにねぇ。でもやりたくない。頑固ちゃんなんです私。

 結局無理やり接着して隙間にブラバンはさんだり瞬間接着剤を流し込んだり、という荒業にはしる。



 このキットの合いが悪いというより、私の面倒くさがりな性格がだめなんです。もっときれいに接着できる人もいると思う。

 ざっと合わせ目にペーパーかけて、細かい隙間は溶きパテで。
 溶きパテなんか使わないという人もいるけど、私は最近初めて溶きパテを買ったのでうれしくて使っている(じゃあ今までどうやってたのかというと、溶いてないパテを使っていた)。

 先日大分のジュンク堂で面白そうな本をいろいろ仕入れてきた。

 まずはこれ読みましたが、すごく面白かったです。作者は霊長類の研究者でチンパンジーとニホンザルの行動研究をされている。お人柄のやさしさがにじみ出てますね。「性器の進化論」(化学同人/榎本知郎著)
 私にはちょっと理解が難しい記述も部分的にあったけど、まあ細かいしくみはわからなくてもOK。
 実は人間のオトコの大事な部分はなぜ突出しているのかという疑問を私も長年持っていまして、著者もやはりそう書いているのでうれしくなった。

 だってそうでしょう。あんな大事な部分・・・ぶつけたりするとものすごく痛いらしいけど(女にはあの痛みはわからんやろうね、といつか息子がつくづく言っていた)、どうしてそんな危険なモノを、のんきにブラブラさせているのか。単にアホだからか?(すみません 謎でしょ?
 この本読むと、ほかの動物はたいてい普段は引っ込ませているそうです。だから雌雄のわかりにくい生物も多い。
 人間の危機管理の甘さが感じられますね。

 しかし驚いたのは、人間のあの部分は、なんと霊長類最大だそうで・・・てっきりゴリラのほうが巨大かと思ってた。
 しかも大きいから、硬くなったときにその状態を保つことが非常に困難になるそうです。嗚呼。

 哀しいねぇ。
 これまでは人間をスタンダードだと思って暮らしてきたけど、こういうの読んでみると人間ってつくづくムダというか意味不明なことに悩んだり時間を使ったりしてるね。ほかの生物は合理的です。

 ちなみに、なんで大事な部分をブラブラさせているかはまだ解明されていないらしいけど、私はコミュニケーションに使うものだから出しているんじゃないかと思う。何も隠さずあなたに見せますよと。自分はこういう者ですよと。もちろん普段はちゃんと服を着て隠してはいますけどね。そして、あえてその弱い部分をさらしていることが人間としての誇りなのかなと。
 などと勝手な想像するのがまた楽しい。

 とかニンマリしながら模型作ってたら、ああっ、パーツが一個飛んで行った・・・・汗


  

 

 


  

 



 レベルの1/72ハインドの続き。

 パーツの写真撮ればよかったかな、とにかくかなりパーツが細かい(多い)です。
 こないだのAH-1Zもそうだっだけどパーツが多いキットは正確に組んでいかないとズレたら大変だから、慎重に作業をすすめる。
 このままいけばちゃんと胴体に収まるとは思うんだけどね・・・カリ組みなんかしてないので、そんな先のことはわからないのだ←おい!!

 定番の自作・なんちゃってシートベルトを作る。ネットで拾った写真を見ています。
 座席の座布団?部分は本当はグレーです。ネットで探したら落下傘を敷いている?のが見つかった、これはその色だと思う。でも、アクセントになるのでベージュで塗装。
 コクピットが全体的に黒っぽいのはチェコ空軍仕様だから。ロシアはあの変な青竹色みたいなやつ。
 やはりヘリのコクピットは黒くなくちゃね。

 だけど、わざと黒じゃなくてグレーで塗装してる。黒だと真っ黒で見えにくくなるから。スケールエフェクトというやつです。
 っていうか押し出しピンの跡消せよって? 面倒だからいいんです。



 側壁などを接着。
 計器類はデカールなので便利だけど何か味気ない。
 ネットで拾った写真見たけど、私がちょいちょいと自作できるようなディテールが見つからない。

 前席が機銃手、後席がパイロットというのは攻撃ヘリ共通なんだけど、ハインドは前席の人は計器盤も少ない。これまで作ったヘリは前後ほとんど同じような計器盤があったのにね。これで大丈夫なんだろうか・・・と心配しても仕方ないけど。



 そういえば、攻撃ヘリなのにキャビンがある。不思議だなー。
 そのぶんいろいろな作戦に使えそうだ。

 えー手持ちの本を見てみたら、武装した兵士八名を乗せることができるそうです。
 だから胴体長が17メートルもある。今まで作ったヘリとどう大きさが違うかは、完成してのお楽しみってことにしよう。
 大きさ比較するには、やっぱアパッチも1/72で作らないといけないなあ。

 キャビンの座席にはネットで拾った写真を参考に「なんちゃってシートベルト」作った。
 細かいパーツを組み立てる楽しみもあるけど、やっぱりこういう「とりあえず自作」ってうれしい。たったこれだけのことでもするとしないとでは大違い。これが全然ないとプラモのシモベになってるような気分になって、だんだん憂鬱になってくるの私。



 作業場。

 旅行から帰って、やれやれと作業場に座るといつもほっとする。
 いいものです。

 プラモを作り始めて数年たったころ(最初はダイニングキッチンで作っていた)見よう見まねで作った作業場だけど、ここ数年、実に居心地がよくなってきた。道具の配置などが自分に馴染んで使いやすくなったというか。

 ひざ掛け、電気ストーブも装備。これで冬の間中、戦える。



 さて、大人の遠足の続き、かねてより訪れてみたいと思っていた大分航空隊跡地に行く前に、護国神社のパネル展に立ち寄ることにした。クルマだとこういう寄り道も簡単にできるのがありがたい。

 JR日豊線・高城駅からもほど近い、小高い丘の上に護国神社は建っている。
 眼下、右側のグラウンドの上辺をJRの線路が通っており、戦時中この線路のすぐそばに高城発動機工場があった。

 正面に見える煙突群は新日鉄住友金属大分工場、その手前に緑地がまっすぐ横に連なっているの見えると思いますが、この緑地の左半分くらいにほぼ沿うようにして当時の大分航空隊の滑走路があった。

 当時、ここからは連日訓練に飛び立つ零戦が見えたことだろう・・・と思ってたら
 「ここからそんなもん見てたら、憲兵隊に捕まえられますわ」と同行のモデラーに叱られた(汗
 護国神社の境内。

 本殿からは神主の厳かな祝詞が聞こえ・・・ちょうど七五三のお参りに来ているかわいい後姿が見えた。息子にもこんなときがあったなあ。

 平和を享受する21世紀生まれのこども達と、このパネル展はあまりにも対照的。
 しかし、七五三の家族が参詣のあと、こちらを見学されていたのはうれしかった。
 本殿横の「言霊館」にて。



 入口においてあった、九六陸攻二三型のエンジン、三菱金星51型のプロペラ。



 裏側のディテール。結構分厚いですね。



 パネル展示。
 最後の特攻の日、宇垣長官の訓示、彗星に乗り込む、中津留大尉(操縦)と遠藤飛曹長と宇垣長官の写真・・・など。

 神立尚紀著「特攻の真意」の中からの抜粋がパネルにありましたが、「玉音放送」は国民に終戦を告げるものであり、停戦命令ではなかった、という。軍隊に停戦命令が出たのは、翌日16日の午後だった。
 私も先日「指揮官たちの特攻」を読んだときは、そりゃあもう「宇垣長官一人で特攻に行けばよかったのに」と思いましたが、よくよく考えてみると、そんな単純なものだろうか。という気がしてきた。
 七〇一空は、たまたま終戦時ここ大分航空隊に一部が派遣されてきていたんです。なぜかという第五航空艦隊司令部が鹿屋から大分に移された(宇垣長官はそういうわけで大分にいた)ことに伴って護衛のために派遣されてきていたらしい。
 つまりはそのために偶然、最後の特攻隊となったわけで・・・まさしく運命のめぐりあわせというほかない。
 しかしまあ、鹿屋にいてもその可能性はあったかもしれないが。

 現在手元に「私兵特攻」(松下竜一著)がありますので読んでみようかと思います。


 私がいちばん興味をひかれたのは、こちら。

 言霊館の前に大きな屋根をわざわざこのために築いて置かれていた巨大な鉄扉。

 さきほど説明した高城発動機工場の門扉である。
 米軍による激しい空襲を受け、多くの機銃掃射の跡が残っている。

 巨大な鉄扉と真ん中のは防音壁。

 1942年に発動機工場として生産を始めたらしいが、戦後は酒造メーカーの酒蔵として使われ、現在は取り壊され、この鉄扉のみが保存されたという。せめてこれだけでも残してもらえてよかった。

 大分航空隊をしのぶ遺構は、もうほかに残されていないから。



 機銃掃射の跡。
 弾痕を見てみたいと願っていたので、実際に本物を見るとことができてうれしかった。

 同。



 私の身長は154センチくらいですが、鉄扉の巨大さがわかりますね。

 もの言わぬ歴史の証人。巨大な鉄扉は私たちに無言で何かを伝えようとしている。

 さて次はいよいよ、以前から行ってみたいと思っていた、近くて遠い「大分航空隊跡」

 とうとう来ました。
 このあたりが滑走路跡になると思う(大分市裏川沿い)んだけど、現在では一部が大洲運動公園になっており、まあ宅地などになるよりはこういう使われ方もいいのかなあと思う。
 テニスコートがいくつもあって、いかにも平和で健康的な情景からは大分航空隊があったことを想像もできない。
 クルマを降りて歩いていくと、目に染みるような美しい紅葉。

 しかし11月とは思えない暖かい日でした。
 九七氏の持ってきた地図を頼りに、どのへんで宇垣長官が最後の訓示をしたんだろうね、などと話しながら、石碑を探す。



 ついに到着。
 芝生の広場のようなところの片隅に、ひっそりと目立たぬその石碑は建っていた。大分県人でもこれを知らぬ人は多いのでは。
 私もつい十数年前まではそうでした。興味を持ったのは模型のおかげ。

 九七氏が準備してきてくれた花を手向け、一同合掌。



 石碑の裏側。昭和五十一年建立とある。1976年。それまでは石碑すらなかったのか。
 戦後というのはむごいことをしたもんだなあ。

 でも、いまそんな批判するのは簡単だけど、実際戦後は生きていくだけでみんな精一杯だったのだと思う。
 正直、あの戦争のことなんか早く忘れて、とにかく今は頑張って働いてよい暮らしをしたい。庶民の思いはそんなところだったでしょう。
 私も過去を批判するんじゃなくて、微力ながら少しでも過去のことを伝えていかなくちゃと思う。今、堂々と過去のことを話してもいい時代になった。こんなところに何を書いても許される時代になった。そのことの幸せをかみしめる。この幸せは重いんだね、実は。



 ふと見上げれば素晴らしい青空。
 あの蒼空の果て、旅立った飛行機乗りたちのことを思う・・・

 それにしても何もかも、自然は美しく出会う人は優しく風景は平和すぎる。



 というわけで大人の遠足、ここまで昼食の時間入れても5時間くらい? ゆっくり回れる良いコースでした。
 大分県内あるいは隣県の方は日帰りドライブがてら、いかがでしょうか。

 なんだかいろいろ感動したらコーヒー飲みたくなってきたなあ、できたらアップルパイ付きがいいな・・・とは思うが、オッサン共に言い出す勇気はない、それどころか・・

 カ号氏「“紙創り”の近くだから、ちょっと寄ってみませんか」と誘惑の一言。
 「紙創り」というのはブランド名で会社は「和巧」で建築模型の製作を専門としています。特にAFVモデラーならばすでにご存じの方も多いと思うけれど、1/35などの精密な草木や1/48、1/72のシートベルト、大きなところでは格納庫やドックなどを紙をレーザー加工することにより製品化している。私もシートベルトや花は使ったことがあるよ。

 写真の中にもそういった商品が写ってますが、静岡ホビーショーにもここのところ続けて出店されているので見覚えのある人もいるのでは。

 数年前に、某モデラーにここに連れてきてもらったこともあるけど、ずいぶん久しぶり。この会社が大分航空隊跡のそばにあるというのは何かの縁かもしれない・・・というか、ここも航空隊の敷地内になるのでは!? まさに因縁を感じる。

 社長のハクション大魔王こと堀さんも気さくな良い人で、モデラー同士、話し出すと話が次から次へと止まらない。
 きらら「あっ、そろそろ行かないと汽車の時間ですぅ~(泣」

 あっというまに楽しい時間は過ぎ、去りがたい思いで和巧さんを後にし、大分駅のコンビニに駆け込んでようやく紙コップ入りのコーヒーを手に、帰りの「ゆふ」に乗り込んだのだった。

 ああ、そのコーヒーの美味しかったこと!!

大人の秋、といえば遠足。

 昨日(11/19)、大分駅南口に怪しいモデラー数名が集合。
 明け方には季節外れの雷と豪雨に見舞われた大分県だったが、昼近くには何のことはない、妖怪“晴れ女”(誰やそれ)の魔力のなせる技か、無理やり雨雲吹き飛ばし、さて楽しい遠足に出発だ。

 おおー、まさしく妖怪・・・じゃなくて私ですよ(汗

 今日はちゃんとお天道様の下におります。こんな汚れた手でプロペラに触って申し訳ない・・・ごめんねゼロ。
 杵築市沖にて平成元年に引き揚げられたエンジンの前にて。零戦21型と書いてあった。



 大分県大分市上野ケ丘1丁目の予科練資料館(tel 097-543-1430) 見学無料
 ご見学の際は電話でアポイントメントをとってみてください。

 館長・川野喜一さんの私設資料館でありまして、ご自分の住居の一階のスペースに予科練、特攻、海軍・陸軍とにかくいろいろな資料を展示されている(ご自分で集めたものもあるが、遺族などが全国から遺贈された品物も多い)。

 実は私、16年前にも一度訪れたことがある。そのとき75歳だった川野さんは現在91歳、もしや体調など崩してられるのでは、というより失礼ながら本当にご存命なのだろうかと疑ったりもしたが、私たちがクルマから降りると間もなく自宅から出てきて迎えてくださった。
 もちろん16年の間にお年を召されて少々耳の聞こえは悪くなっていたけれど、元艦攻乗りの名に恥じないかくしゃくとした話しぶりで、瞳は強い意志で輝いていた。
 このような人が大分県人であることに誇りを感じる。

 写真撮影自由なので、好きなように撮らせてもらった。

 海軍さんのハンモック(実物)。
 珍しい展示ではないでしょうかとのこと。
 皆さまは見たことありますか?

 一式陸攻のスピナ

 塗装の剥がれ方が面白い。



 雑多なものが並ぶ。

 中央の木刀のようなものは、軍事教練で使用されていた木製の小銃。
 戦時中旧制中学に通っていた私の父なども、こういうものを使っていたのだろうか。

 操縦者の使っていた手袋。
 今の目で見ても、上質そうな感じがするし、オシャレな感じもする。

 予科練で使用されていた航空術の教科書とノート。

 落下傘のベルトがよく観察できました。

 人形の塗装するときにお馴染みのカタチ。

 大きいほうが20ミリ、小さいのは12.7ミリの銃弾。

 さすがに20ミリは大きい。
 「20ミリじゃないと、飛行機はおてん(落ちない)」と川野さん。

 久々に聞いた大分弁だなあ。

 零式戦闘機一号受信機(本物)。

 さまざまな方から寄贈されたものが多く、けっこう本物が多い。

 そばにはモールス信号の送信機?もあり、スイッチを入れると「つーつつつつつ」という独特の音がした。
 信号が途切れたときが突入の瞬間だったと聞きます(特攻において)

 

 千人針。

 息子の出征に際して、当時の母はまわりの女性に糸の結び目をひとつずつ作ってもらってお守りにした。
 寅年の女性は自分の年の数だけ作ることができたという。(先日も書いたけど「虎は千里を行きて千里を還る」と言われ不死身の生き物だといわれたから)

 隣においてあるのは、「赤紙」です。
 若い男は兵隊に取られ、後には老人と女子供ばかりが残り、その苦労は筆舌に尽くしがたかったと思う。

 いつだったか、息子が帰省したときに
 「お母さんは、いま戦争がなくて本当によかったと思うよ、もし今戦争があったら、お前みたいのが一番に敵に突っ込んでいって一番に死んでたよ」
 「俺もそう思う(苦笑)」
 というような会話をしたことがあった。
 息子を失った母の心を思うとき・・・なんと言ってよいか、言葉がありません。

 本当に今が平和でよかった。そう思うけれど、川野さんは今の世の中に少し危機感を感じるとおっしゃっていました。
 なんとなく戦後70年が過ぎたけれど、自分たちでの意志で国の平和を守り、自分たちで選んだ道を歩いているのか。そういう自覚が日本人にあるのか。そういわれると、私には自信がありません。なんとなく、なあなあで、誰かがやってくれてるからまぁ大丈夫だろう・・・といういい加減な感覚のような気がします。

 川野さんは終戦時、木更津で流星改の偵察員でした。あと数日戦争が長引いていたら、特攻隊員として出撃していました。
 写真は第七御盾隊の西森良臣上飛曹(高知県出身)、昭和20年8月13日特攻出撃、戦死。

 出撃前、西森上飛曹から川野さんの新しい飛行服と取り換えてくれ(新しい飛行服で死にたい)と頼まれ、川野さんと飛行服を取り換えて出撃されたそうです。
 飛行服が身代わりとなり自分は生き残った、という思いが川野さんにはあるそうです。が、戦後こうして私財を投じて私設資料館で当時を伝えているのですから、西森上飛曹の魂はここに生きているともいえるでしょう。

 ご紹介はしませんが、大分航空隊ではご存じ「最後の特攻」がありました。先日も少し書きましたけど、例の中津留大尉機が宇垣長官を乗せて飛んだ8月15日の玉音放送後の特攻です。
 これについても川野さんは詳しく説明してくださいました。

 最後に、川野さんが入れてくれたお茶を恐縮しつついただき、昼食時になってしまった非礼を詫びながら、資料館をあとにしました。
 私たちの乗ったクルマを敬礼で見送ってくれた川野さんに、深く感謝を捧げたいと思います。

 というわけで、不良モデラー数名は海軍式の敬礼に色んな部分が縮こまる思いでしたが、「とりあえず腹減りましたな」というわけで、昼食に向かう。新鮮な豊後水道の魚をのっけた海鮮丼で生き返り、さて次の目的地へ。

 明日に続く。
 
 



 レベルのハインドですが、ものすごく小さなパーツがてんこ盛りなので、組み立てること自体で満足していれば幸せな人になれる。
 資料も少ないしね。・・・ま、ハインドなんか誰も詳しくは知らんやろ。ふふふ、そこがヘリのいいところ。

 先日作っていたローター基部はこんな感じ。赤いパーツがいいアクセントだね。組み立てて色を塗っただけです。あ、スミ入れもしたか。

 色の指定がよくわからないけど、ロシアのヘリのエンジンまわりの色なんか誰も知らないから(そうなのか?)適当に。
 左側の空間にエンジンが二基並んで入ります。 

 それにしてもやはり72は、小さいなー!! けど、小さいから模型なのだ。



 本日の三笠。

 激しくずれてるな・・・・・最初よくても、だんだんずれてくるのだよ。むつかしー。
 ちなみに、ハセガワのノズルは活躍しております。



 まだ残りがこんなにあるよぅ~~~!!!
 ふぇ~~ん。しかし三笠でこれだから、1/350のエッチングとかどうなるのだ。

 毎晩、家に帰ってくるなり作業場にこもって、うれしそうに1/700の手すりを接着してる艦船モデラーって・・・やっぱり変態度としては最高峰なんじゃないですか?
 変態度の高い作業ベストテン・・・一度じっくり考えてみたいですね。

 新しいパソコン買いました。

 今度は東芝ダイナブック。懐かしい響き。ノートパソコンじゃなくて、ラップトップと言いたい。

 これで私のパソコン遍歴はNEC→富士通→ソニー→ACER→NEC→東芝、となりました。
 液晶画面がとても綺麗なので選びました。ま、左側のNECは5年間使ったから経年劣化もあるし私の画面設定の色が少し暗いのもあるけど、こんなに違うとは!!

 この五年間で目がものすごく悪くなったので、「見やすい」というのがスペック以上にパソコン選びの大切なポイントとなった・・・なんだかなあ。
 しかしそろそろ「中高年向けマシン」とかあってもいいよなあ・・・

 色は黒が欲しかったんだけど品切れで、まるで女子みたいな色合いのモノになってしまった。ああ、なんか眩しい。
 古いほうもダメモトで修理に出すことにした。実は「五年間保証」があと一が月残っていたのだよ、ラッキー。

 今回はもう五年間保証とかいらねーや、と思ってましたが、電器屋がオマケでつけてくれた。ホホホ、美人は得よね、御免あそばせ。でもうまい話には先がある・・・。

 電器屋「ねぇ奥さん、自分で初期設定とかできないでしょ、ほらほら、俺がやってやるから、貸してみな、奥さんのスロットにコイツがちょうど入るかな・・・」
 きらら「イヤっ、そんなとこ・・・」
 電器屋「おやおや奥さん、こんなとこにもスロットあるんだねぇ次は何を入れてみようか」 (官能小説「前から後ろから初期設定」)

 もちろん、パソコンは自分の手で歩いて持って帰り、スロットにはハードディスクなどをつないでみました。自分で設定しましたよ。ははは。
 (一応冗談って書いておかないと、本気にする人いるかもしれないもんね、まぁいないとは思うけど・汗)

 しかし今回のブログはとりあえず古いほうのマシンで書いてます。
 


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